この数日の28度超えの陽気に、庭の牡丹が一気にほころび始めました。


縁に少しピンク色の入った白の牡丹と、紫掛かった紅色の牡丹
ぼってりと重そうな花を咲かせてくれています。
牡丹は花の女王とも百花の王とも言われ、この時期、お茶室の床の花にも使われます。
牡丹は格の高い花。
お茶室の床には唐物の花入れに牡丹を一輪だけ、飾ります。
敷板も花や花入れの格に合わせて矢筈の真塗りを合わせます。
お茶のお稽古の際に、上手くタイミングが合えば牡丹を一輪、宗匠宅へお持ちするのですが、そうすると宗匠はご自身がご準備くださった花を下ろし、
「牡丹を入れてください」と言って矢筈の真塗りの板と唐物花入れを準備するようにご指示くださいます。
そしてお稽古に来られる方に「こと子さんの家の牡丹ですよ」とご紹介くださいます。
こういうお心遣いがとても嬉しく、
「庭の牡丹がお稽古の日にちょうど良い蕾になりますように」
と祈るような気持ちで毎日牡丹の様子を見ています。
気温の調整をしてつぼみの膨らむ具合をコントロールできればいいのでしょうけれど
哀しいことに私にはそのテクニックがありません。
このところ、母の退院後のことでちょっとバタバタしていてブログの更新やお友達のブログへお邪魔しコメントをさせていただく気力が無くて寂しい気持ちでいたのですが
今夜は少し元気が残っていたのでやっつけ仕事のようですが庭の花の画像を載せてみます。


テンナンショウの仲間では花の中央の白い苞がお餅ように見えるのでユキモチソウと言う名前の由来です。
テンナンショウの中でも一番好きな種類です。


左はオオデマリ まだ花が緑でこれからぐんぐん真白になっていきます。
右は白雪芥子 鳥が運んできていつの間にか庭に広がり始め、ある時期、庭中に広がってきたので今は門の塀の内側、半日陰の部分だけ残して抜いてしまいました。


アネモネ 2種
どちらもとてもきれいな色でしょう?


左 紫のオダマキの蕾です。
右は庭桜
先日、所用があり京都市北区に残る御土居(おどい)のそばを通ったら
まだ見事な桜が咲いていて、思わず画像を撮りました。
御土居と言うのは豊臣秀吉が京都の町を囲うために作った人口の土塁です。
その土塁、御土居が今でも市中のあちこちに残っていて、北野天満宮の境内にもあるのですが、私が桜の花を見たのは御土居の北の端あたりになる場所です。


わかるでしょうか?
こんもりと土が盛り上がっているところが御土居の一部の遺構です。
すぐそばには住宅が建っていて、この部分だけがフェンスで囲われて「御土居跡」と保存されています。
秀吉と言えば大阪では太閤さんと言って愛されている印象が強いのですが
京都の人は(大きな声では言えませんが)秀吉が嫌い。
京都の町を統治しやすいように、当時、力を持っていた寺院を一か所に集めたり(寺院を管理しやすいように集めたのが南北の寺町通りや東西の寺之内通り)、
御土居を作って町を改造してしまったり、
文禄・慶長の役で朝鮮出兵した際に先勝の証として朝鮮で人々の耳や鼻を削いで塩漬けにして持ち帰ったものを「耳塚」として埋め、その上に多宝塔を建立したり。
とにかく京都の人が眉をひそめひそひそと悪口を言うようなことをしたんですよね。
秀吉は今の京都国立博物館のある場所に奈良や鎌倉よりも大きな大仏を有する方広寺を建立したのですが、その大仏、作るたびに地震や火災で焼失したり崩れ落ちてしまったりで
結局残ることが無かったのも京都の人は因果応報、と戯れ歌などで歌ったそうです。
京都国立博物館のそばの交番が「大仏前交番」というのは当時そのあたりに大仏があったから。
方広寺と言えば家康から「国家安寧 君臣豊楽」で家康の名前を切ったと因縁をつけられる原因になった梵鐘もあった寺。
大仏と言い、梵鐘と言い、方広寺は豊臣家にとってはまるで呪われたような因縁のお寺なんですね。
ちなみに、南北の通りの河原町通りから千本通りまでにはそれぞれ「正面通り(しょうめんとおり)」と交差する場所があります。
河原町正面・西洞院正面(にしのとういんしょうめん)・大宮正面などバス停の名前もあるのですが、この正面とは当時の方広寺の正面に向かう通りだったからついた名前です。
と、御土居の桜から思わず脱線してしまいました(^^;)
最後に、その御土居の桜をどうぞ。

