この2.3日のストレスを言い訳にはしません、しませんけれども……
ずっと欲しくて「今年こそは」とこの数年、思い続けていた雪花絞りの反物、買ってしまいました。ゴメンナサイ
雪花絞りを買うなら絶対に紫、と決めていました。
これから冬に向かうのになぜ今?ですよね、
先日の木村佳乃さんのカレンダーの話から
今年の夏用に染められた反物、「取り寄せればまだある」とたまたまそんな話になりまして。
雪花絞りを手に入れるなら絶対「紫」そして「六つ折り」(板締め絞りの雪花絞りには六つ折りと四つ折りがあって、4つ折りのほうが柄が大きくなります)と決めていたのですが
なんと! 紫の六つ折りの雪花絞りがあったんです。
シーズンオフなので少しお安くもしていただけました。
なんて嬉しい!
こういうことは出会いなのですぐに頂くことにしました。
生地は綿紅梅
お仕立てはゆっくり、次の夏までに単衣の着物仕立てでお願いするつもりです。
言い訳にしたストレスの件。
実家の母がこの数日、脳の機能低下が著しくて
せん妄の症状がひどいんです。
電話を掛けてきて訳の分からない意味不明なことを言い続けたり
妄想や幻聴、幻覚にとらわれて(とらわれて、という表現はよくないですね、本人にとってはその妄想や幻聴、幻覚は現実として認識されているのですから)攻撃的に電話口で私を責めたてたり
やっと電話を切ってくれたと思うと1分もしないうちにまた電話を掛けてきて同じことを繰り返し言い募る、そんな状態が続いています。
施設の方にお願いして
「携帯電話が壊れているようだから娘さんに送って修理に持って行ってもらいましょうね」と携帯を取り上げてもらおうか、と思うほど。
時間構わずひっきりなしの母からの電話で気持ちがくたくたです。
私だけならまだしも、親せきの家にも電話を掛けているようで
「こと子ちゃん、お母さんから何度も電話がかかってくるんだけど……」と連絡がありました。
病気のさせること、と頭ではわかっているのですけれど
なんともやるせなくて、しかもあまりにひどい頻度で電話してくるので腹も立つのです。
4年半前に亡くなった父は末期の大腸がんで亡くなる1ヶ月ほど前には体はすっかり弱っていましたけれど頭は最後のまでしっかりしていて
最後の2日間は意識もなかったのですが、その前日に私に
「お母さん(母のこと)を頼むな、わがままで困った人やけど頼めるのはこと子だけやから」と遺言のように言い残しました。
そんな父の最後の様子と(比べても仕方がないのに)つい比べてしまって
(私が小さい頃からさんざん冷たく当たってきたのに、最後まで私を苦しめる)と母を恨んでしまう気持ちと、病気がさせてることだから本気で腹を立てたらダメ、と思う気持ちが綯交ぜになって
この2.3日、落ち込んでいました。
買い物の途中で見かけたご近所の柿。
まさに「木守り」ですね。
長次郎の赤楽茶碗 木守
長次郎七種茶碗の一つで今は私がお稽古している流派とは深い縁があるお茶碗です。
赤楽茶碗、木守についてはこちら↓
利休が茶の湯のコンセプトに合う茶碗として、初めて国産の茶碗を焼かせたのが楽焼の祖‘長次郎’
その長次郎の焼いた茶碗を弟子に好きなものを取らせたところ、赤の茶碗だけが残った。
利休は「こんなにいい茶碗を取らないとは」とその茶碗に「木守」と名づけた。
来年もおいしい柿が実るようにと最後の一個だけ残しておく習慣があり、その柿を木守りと言うことからの名づけ。
後この木守茶碗は長次郎の作った名碗‘長次郎七種’の一つとして、官休庵に伝来したが、
江戸初期、京都には火事が多く、焼失の恐れを抱いた三代目家元真伯が、茶頭として仕えていた高松の松平候にその茶碗を献上した。
そして代々の家元襲名茶事の砌、松平候から拝借し、茶事が終了すれば外箱を作り、藩侯にお返しする慣わしになっていた。
ところが大正8年、12代目の愈好斎家元が、古式にのっとり松平家から「木守茶碗」を拝借し茶事を終えた際、家元より戻された木守は不幸にも東京のお屋敷の蔵に保管され、大正12年東京を襲った関東大震災の犠牲になってしまう。
そこで焼け跡から木守茶碗の一片を見出し、楽焼12代目の弘入と13代目の惺入との二代にわたりその茶碗の一片を埋め込んで「木守」を再生した。
現在残る木守茶碗は、大正から昭和初期にかけての再生品で、骨董品的価値はないかもしれないが埋め込まれた一片に官休庵の歴史・道統が包含されている。