いつか。
いつかここに書いてみようと思っていた母との関係、
そのことを書くために避けては通れない私が生まれた家の話を書いてみようと思えるようになりました。
実の親子でも馬が合わないということがあると思うのですが
私は物心ついた時から理由はわからないけれど母に疎まれていることを感じていました。
父は無条件に私を心底かわいがり愛おしんでくれていましたし、
祖父母も初孫の私を本当にかわいがってくれていたので
母に嫌われてはいても格別つらいと思わずに済みました。
祖母が100才で亡くなり、その告別式の時のことです。
その時、母は76才、私は52才だったのですが
告別式に来てくださった弔問客の中に、当時母より年上に見えたご婦人を指さして
「あの人、私に『男も産めないくせにえらそうに!』といったのよ」と
おそらくは50年近く前のことをまるで昨日のことのように吐き捨てるように言ったのです。
それを聞いた瞬間、(あぁ、母は私は女だから疎ましかったんだ、息子じゃなく娘だったから私に愛情を持つことができなかったんだ)と
長い間私の心の中にあった(なぜ母は私をこんなに疎ましがるんだろう)という疑問が解消されたような気がしました。
気位が高く、負けん気が強くて口も立ち
総領娘らしく家や妹たちを仕切っていた母の唯一の弱点が「男を産めなかった」ということだったのだろうと思います。
負けず嫌いで気位の高い母は私をよそ様から文句のつけようがないように育てたかったらしく、私は幼稚園に上がる前から、ピアノ・絵画教室・書道教室に通わされ
小学校の高学年からは家庭教師の先生も来るようになって
毎日何かしらの習い事をしていました。
もしかしたら母は私と一緒にいる時間を少しでも減らしたかったのもあったのかもしれません。
小学5年の時のことです。
新学年が始まってクラス委員を決めた日
家に帰ると母は紅茶を入れてケーキを食べていました。
「今日、委員長選挙があって委員長は〇〇君、副委員長は△△さんになったよ」と言ったとたん、
母がテーブルの上のティーカップとケーキの乗っていたお皿を片手でバンッ!と払いのけ
「あんたはそれで悔しくないの!どうしてそんな平気な顔してるの!」と言い私を睨みつけました。
私は茫然と部屋の壁にぶつかってずるずると滑り落ちていくケーキを見ていた記憶があります。
そしてこの後片付けをどうするんだろう、とぼんやり考えていました。
この日の事はまさに母を象徴していた出来事でした。
私の実家は私が知る限り3代続けて婿養子を迎えている女系家族です。
私の曾祖母は二人姉妹の長女、
祖母は一人っ子(本当は兄弟姉妹がいるのですがそのあたりの事情は次の機会に書きたいと思います。とても複雑な事情なので簡単に書くことが難しいと思われます)
母は三人姉妹の長女、
そして私はやはり一人っ子です。
二人いる母の妹のうち、上の妹には娘が二人、下の妹には娘が三人
何かの呪いかと思うほど私に実家は男が生まれてこない家なのです。
小さい頃から「あんたは婿を取って家を継がないといけない。」と言われ続けていた私が長男の夫と結婚し家を出る時にも母は決して許さず一時は絶縁状態で
「こと子の好きにしてやれ」と言ってくれた祖父に対しても母は相当長い期間とても冷たい態度をとっていたと後に聞きました。
そんな母は今年の6月末に一人暮らしがいよいよ無理になった、と家の近所の施設に入居、
8月25日、その施設内の廊下で転倒・腕を骨折し持病のパーキンソン病を診てもらっている総合病院の整形外科に入院、手術をして現在も入院が続いています。
コロナ禍のため、直接会うことはかなわず、週に2回割り当てられたリモート面会の日に病院1階に設けられたリモート面会用のブースを利用するために私は京都から姫路市の病院まで通っています。
骨折、手術の直後は面変わりするほど弱って小さくなってしまったように見えた母でしたけれど術後1か月半が過ぎ、退院に向けてのリハビリ病棟に移った母は食欲も出て顔つき目つきも入院前に近いほどはっきりしてきているのでほっとしていました。
パーキンソン病からくるレビー小体認知症の症状が出てきたことが施設に入居する決心を母にさせました。
自分でも時々、自分の様子がおかしい自覚があったことで一人暮らし(父は4年前に癌で亡くなりました)に自信がなくなったようでした。
「夜中に子供が喧嘩して家の中を走り回っている」とか
「昨夜はこと子がいなくなったので探し回ったら押入れの中に隠れていた」とか
「家の中を子犬が走っている」とか
庭を指さし「あそこに立っているのは誰?」と誰もいないところを指さして言ったり。
そんなことが次々続いて、でも私以外の人と話すときにはすごくしっかりした口調で
まともなことを話すので実の妹(私にとっては叔母)ですら
「姉ちゃん、ちっとも変じゃないじゃない、しっかりしてるわよ」と
私はいくら母が時々おかしいといっても信じてもらえず、施設に入居することになったと伝えた時には涙を流して「姉ちゃん可哀そう」と少し私を責めているような様子さえありました。
リハビリ病棟に移ったとはいえ手術・入院の影響で元々頼りなかった足がますます弱って一人で歩くことは危険なのでトイレに行く際など必ずナースが付き添ってくださることになっていたのですが(母の肩には勝手に歩き回らないようにセンサーが取り付けてありました)先週、センサーを外して一人でトイレに行きまた転倒して今後は肋骨2本にひびが入ってしまいました。
リモート面会に行くとタブレット越しに
「早く退院したい、今すぐ退院の手続きをして!」
「お金がないから売店におやつを買いに行くこともできない」
そればかりを言うのでリモート面会のたびに
母の好きな果物をむいたものやお菓子を「同じ病室の人にも上げるから」という母のために多すぎるほどのお菓子を差し入れ、毎回渡している売店で買い物するためのお金も「もうない」というので病院のスタッフの人にお預けして母に渡してもらっていました。
一昨日のこと
「こないだバスに乗っていろんなところに行ったときにね」
といきなり話し始めた母。
何のことかわからず聞き返すと
「この間、H先生(母のパーキンソン病の主治医・今回の入院は整形外科なのでH先生の担当ではありません)と看護師さんが3人付き添ってくれてバスに乗っていろんなところに連れて行ってくれたのよ、その最後にお宮さん(神社のこと)に行ってね、そこに有名な祈祷師の人がいて御祈祷してもらったのよ、その時、ご祈祷書のお世話係のワンピース着た女の人にお礼するのを忘れてきた。そのことで肩身が狭くて毎日がつらい」
というのです。
全くの妄想です。
ですが、逆らうと怒り出すので、ふん、ふん、と話を聞き
「その女性には私がちゃんとお礼をしておくから心配しなくていいよ、安心していいからね」となだめたのですが
面会が終わってそばで話を聞いていた看護師さんが
「お母様は売店でお買い物されたりはしておられませんよ」と言い
「娘に家を乗っ取られた、お金も全部取られてしまったから帰れないのでタクシー代を貸してください」と何度か言われています、と教えられました。
母が私を疎ましく思っていたのと同じように、私も未だに母を好きになることができずにいます。
ですがそんな私の本心を知っているのは夫だけ。
実家のご近所の人、病院関係者、介護に関わってくださっている方たち、
どんな場面でも「高齢の母を心配している娘」という顔をし行動しています。
まだコロナが感染し始める前、病院への付き添いをしていると
同じように付き添いの方と一緒に待合室で待っている高齢の方を見かけると
「あの人に付き添ってるのは嫁やわ」とか
「ヘルパーさんについてきてもらわないといけないなんてみじめやね」と
そんなことを平気で言う母が嫌で仕方ありませんでした。
跡取りの息子がいないことをずっと内心では腹を立て
息子がいる人をうらやんで生きてきていた母が
今になって息子なんて何の役にも立たない、嫁に付き添ってもらってあの人はかわいそう、
実の娘と嫁とは一目見たらわかるわ、世話の仕方が違う、などと言うのを聞いていると
(ずっと私を疎ましがっていたくせにいまさら何を言うの)と母に言いたくなる気持ちを押し殺すために身体が震えそうになることもありました。
親思いのいい娘の役をするために毎週リモート面会に出かける私に夫は
「無理しないで行きたくない時は言い訳見つけて行くの止めればいいんだよ」と言ってくれるのですが、薄情な娘さん、と思われるのが嫌で来週リモート面会の予約を入れています。
鬱陶しい話のお口直し。
昨日、買い物に出かけたデパートの甘味処で食べたあんみつです。